清水邦広
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母親がママさんバレーをやっていて、その影響で小さい頃から練習会場に付いて行ったりしていました。最初は同じように来ていた周りの子供達と遊ぶ事が目的でしたが、大きくなるにつれてバレーボール自体に興味を持つようになりました。母親がエーススパイカーをやっていて、その姿を見て次第に自分も母親のようなかっこいいエーススパイカーになりたいと思い、小学校4年生時からチームに入団してバレーボールを始めました。当時は人見知りが激しく、野外活動等も休んでしまうような性格だったんですが、”バレーボールをやりたい”と初めて自分から母親に伝えて。母親もずっと自分の人見知りな性格を心配してくれていたのでその発言をすごく喜んでくれましたね。バレーを通じて徐々に周りの人たちともコミュケーションも取れるようになっていきました。
そのまま中高とバレーボールを続けて、東海大に進学しました。高校三年生の時から名前だけなんですけど、日本代表に登録してもらっていました。実際に帯同したりはしなかったんですけど。それから大学2年時にワールドリーグ(現在のネイションズリーグ)の国際大会の公式戦に呼ばれて。当時、自分と同じオポジットの選手が怪我で出場できなくなってしまったとのことで、大会前日に東海大の監督に連絡があって招集さました。そのままチームに合流、翌日のフランス戦に出場し活躍できたことで自分の代表活動が始まりました。完全に運で掴んだ日本代表でしたが、結果を出したことで評価されたと思っています。
KC)バレーボールで生きていこうって決めたタイミングはありますか?
清水選手)小学生の時から155cmと大きく、中学卒業時に188cm、それくらいの時期で自分の体が恵まれていることに気付き出しました。大学4年生時に北京オリンピックに出場したんですけど、そのときに世界の強豪と戦い、全然勝てなくて。すごく悔しくて、”このままじゃダメだ”と思って自分を追い込む意味も込めてバレーボール一本でやれるところまでやってみようと。腹を括ってプロ契約でのパナソニックに入団しました。当時はプロ契約なんてほとんど前例がない時代だったので勇気出して。
KC)東京五輪で代表に呼ばれましたが、初めて日本代表に選出された大学生の頃と東京五輪ではどのような気持ちの違いがありましたか?
清水選手)そうですね、北京五輪に最年少で出場しましたが、ロンドン五輪、リオ五輪と出場逃してしまっていて。東京五輪でなんとしても出たいと思っていました。何がなんでも五輪に出たいと。年齢的にもベテランで、いい選手がたくさんいる中で12名に選ばれるチャンスを掴むために本当に集中しましたね。持ち味をアピールしながら、世界ではこう戦っていける、チームではこう貢献できるとアピールすることに注力しました。
KC)言い方は失礼ですが運で掴んだと言われた最初の代表と、アピールした上で選ばれた東京五輪では清水選手の中での日本代表に対しての捉え方は違いましたか?
清水選手)違いましたね。若い頃の代表と今の代表では国を背負う重みが全然違ったし考え方が違ったと思います。
KC)どっちが大変でした?
清水選手)ベテランの方が全然きつかったです。若い頃も考えてないわけではなかったんですが、勝敗より自分の活躍を重要視していた部分があって。もちろん勝てば嬉しいし負ければ悔しいんですけど、それよりも自分が活躍できたかどうかにフォーカスしていた気がします。それが、中堅、ベテランとチームを支えるフェーズに変わってからは”チームを勝たせたい”、”日本を勝たせたい”という気持ちに変わって。同時にプレッシャーの質も変わり、難易度も上がりました。
KC)2018年にACLと半月板の怪我をして、度重なる手術を何度もやって復活。32-3歳の頃の怪我ってバスケなら、バスケだけじゃなくて他のスポーツでもかなりきついタイミングです。その時の心境としてはどうでしたか?
清水選手)本当にめっちゃきつかったです。おっしゃる通り、引退を考える年齢での怪我だったので。一番きつかったのは、怪我を受け入れられない自分を見つめる時期ですね。特に最初の数ヶ月間。なんで自分が?なんでこのタイミングで?と後悔がずっとループしていて、1年で治るんだろうか、同じ膝に戻るのかと不安がずーーーっと頭の中を巡っていました。悪夢のように寝て起きて治ることでもなく、この気持ちも痛みもどう対処していいかわからなかったんで。その中でメンタルコーチからのトレーニングのセッションがあって。”あまり深く考えすぎず、流れに身を任せるのも一つの手だよ”と言われてはっとしました。確かに考えてもやるべきことは変わらないし、良くなるわけでもないから、気持ちが乗らない時は流れに身を任せるのもいいのかなと。そう考えられるようになってからは考え方がポジティブになって結構頑張れましたね。
KC) ちょうど自分と同じ年齢くらいの時の大怪我なので想像すると本当に怖いです。特に1年も試合に立てないのは恐怖すぎますね。僕なら引退という選択をしてしまうだろうなと。
清水選手)実は僕も診断受けた時に、ドクターに引退する、もう最前線でのプレイは諦めると伝えたんです。そしたらドクターが病院内の膝専門医を5-6人呼んできてくれて、”確かにこの怪我は10年前なら引退だけど今の医療なら治せる。私たちが全力でサポートするから、またコートに立ってその時に納得いかなかったら引退してくれ”って言われて。ああ、これは治らない怪我じゃないんだと希望が持てました。感染症もあり、結果的に7-8回手術をしたんです。それまでは”元通りの膝に戻るのかな”って不安がありました。ただ、どう頑張っても元に戻るわけじゃないから今の体でやるしかないよなと決めたら、だいぶ楽になりましたね。”前もっとこうできたのに”、”飛べたのに”、”キレのあるスパイクを撃てたのに”って思っていたことが、今この膝だからこそもっとこの技術を磨こうとか、結果的にはもっとやれることはなんだろうとバレーボールと向き合って模索できた機会になったと思っています。
KC)それは本当にもうアスリート特有の価値観ですよね。今のベストをつくそう!って考えは普通の人でも思いつくと思うんですけど、そこから工夫する、さらにアプローチを変えることで過去の自分を超えてやろうって考えられることはアスリートだよなと。根本的にめちゃくちゃ負けず嫌いなんだよなって思いますね(笑)
清水選手)負けず嫌いですね、間違いなく。模索しながらなんとか這い上がってやろうって思いましたね。
KC)自分も大怪我をした時があって、何となくもうプロはきついかなと諦めてたんですよね。でもリハビリしてる途中からちゃんとバスケと向き合うことでなんなら前より上手くなりてーな、こんなに苦労してんのに過去の自分なんかに負けたくないなって思い始めて(笑)。転んでもタダでは起きてやらないぞって工夫し始めました。
清水選手)めっちゃ似てますね(笑)
KC)それでもやっぱり清水選手の場合は日本中からの期待やプレッシャーを背負ってる中でだから、次元が違うと思います。正直、逃げ出したいとかこの責任を放棄してしまいたいとか頭をよぎることはありましたか?
清水選手)そう考えたことは全くなかったですね。ケガのリリースがあってからもう本当にたくさんの千羽鶴やファンレターが届いて。数え切れないほどの。こんなたくさんの人たちに支えてもらってるんだなと実感して、もうこれは頑張るしかないと腹を括ることができました。たくさんの方々に応援されてることが、自分の勇気になりました。
| Episode4 |
KC)失礼な話ですが自分も33歳で引退も考える年齢です。若い世代に技術やシーンを繋げて、伝えるフェーズに入ってきたなと。ここまで20年以上やってきたバスケットボールの自分なりの着地の仕方を少しずつイメージしていて。清水選手はどう締め括ろうかイメージしたりしてますか?
清水選手)どこまでできるかは正直全然わからないですね。でもできるだけ長く続けていきたいし、引退後はバレーボールに恩返ししたいと思っています。ここまで自分を育ててくれたバレーボールの魅力も伝えたいし、それは僕の使命だと思っています。どうしてもまだバスケやサッカー、野球のような日本の国技に比べると人気度も知名度も下なので、僕もそこを引き上げる活動に携わっていきたいですね。
KC)個人的にはバレーボール界のキングカズさん(サッカー 三浦 知良選手)みたいになってほしいです(笑)
清水選手)カズさんもそうですけど、ゴンさん(サッカー元・日本代表 中山雅史氏)と食事させてもらう機会が何度かあったんです。その時にもちろん失礼を承知で、”ゴンさん、いつ引退するんですか。なんでそんなに頑張れるんですか”って聞いたことがあって。そしたら、”俺が頑張ることで若い選手の可能性を引き上げてるんだよ。選手寿命が伸びることはサッカー界にとってもいいことだからね。俺はそれを第一線で頑張ってるんだよ”と聞いて、自分もバレーボールでそういうことをしたい、そういう選手になりたいと思いました。やはりバレーボールも30歳くらいで引退かなーって雰囲気はあるので、自分が活躍し続けることでその概念を払拭させられると思いました。
KC)僕も清水選手と知り合った以上、年齢を言い訳に引退できなくなっちゃいましたよ(笑)。でもマジな話、練習時間より体をケアする時間が圧倒的に長くなってきたりしません?
清水選手)わかる!(笑) 正直自分は、若い頃はストレッチとか治療なんて一切して来なかったんですけど、今はもう家にストレッチ道具、ケアグッズが溢れてます(笑)。アイシングの機械とかも買っちゃいましたしね。
KC)昔はそのままほいってプレイしてましたけど、今はチューブ使った入念なストレッチやウォームアップして、あとご飯!栄養をすごく気にするようになりました。
清水選手)めちゃめちゃ気にしますね。外食続くとそろそろやばいかもって思ったりします。練習でも、若い選手は特にアップせずにスパイクをばばんって打ったりできて。そういうのをの見て若いなー、凄いなーって思います。
KC)でも今の清水選手のマインドセットだと、若い世代に戻りたいって感覚はないですよね?
清水選手)ならない!でも今の選手ってマジで上手いんですよ。自分たちの世代は言わばポテンシャルでスパイク打ってる選手が殆どだったけど、今の選手はポテンシャル+技術でプレイしてますね。なのでそういうプレイを見ると、直接若い選手に教えて!とは言わないですけど、”ああいうやり方があるのか。俺も真似してみようって”技を盗むようにしてますね。プライドなんかよりも上手くなりたい欲の方が強いので(笑) 自分の中でもっともっとバレーボール上手くなれるなって感じています。
KC)これは引退は全然先だなー(笑) いろんな引き出しが増えてバレーボールの本質に触れているというか、純粋にバレーボールを楽しめているんですね。
清水選手)毎日色々なことを発見し続けるんですよ。これ、ベテランは全員言ってるんですけど、”バレーボールは歳を取れば取るほど面白い”って。本当にそう思いますね。若い頃は、練習嫌だなとか感じる日もあるじゃないですか。でも今は毎日早く練習がしたくて仕方がないんです。それくらい日々の発見で自分のバレーボールの幅を広がっているのを感じますね。
近年は完全にデータバレーになっていて、いろいろ研究しながらプレイしてる選手やチームがたくさんいます。若い世代の技術力の凄さだったり、この要因はSNSの普及がひとつ要因としてあるんじゃないかと思っています。自分たちが若い頃は海外のプレイのごく一部をビデオで擦り切れるくらいみて、頭に記憶して練習に行ってました。でも今はスマホで全て見れるし、なんならトッププレーヤーが直接やり方を解説したりする動画もあったりしますよね。めちゃくちゃ分かりやすいですし。そういった情報にアンテナを張り巡らせて、それを収集してトライできる環境が整っていると思いますね。なので、若い選手はこれから先もっともっと上手くなれると思います。中学生や高校生の子達に”今が一番伸びる時期だから、自信持ってプレイし続けて。本気でやればチームのレギュラーにも、ましてや日本代表にだってなれる。その志がすごく大事。”と伝えています。
KC)今回のインタビューのテーマが”コネクション”-繋がり-なんですが、清水選手の話を聞いていると全てが人との繋がりで成立しているような気がします。
”出会い”は自分の財産ですね。福澤(福澤達哉元選手)、パンサーズのメンバー、代表メンバー、ファンの皆様、いろんな人との出会いがあったからこそ今の自分がいると思います。若い頃はなかなか気がつけなかったんですが、10数年プレイして培ってきたこの”出会い”は自分にとっての財産だと思います。感謝しかないです。だからこそバレーボールで恩返ししていきたい。一つでも皆さんの心に残るプレイを届けていきたいと思います。
KC)最後にインタビューをご覧になったファンの皆様に一言お願いします。
清水選手)オポジットは点を取るポジションです。Vリーグもシーズン中で、やはり厳しい戦いが続いていますが、ガンガン点をとってチームを助けていきたい。少しでも多くの熱いプレイを届けていきたいと思います。あ!プラス!同世代のみなさんの旨い酒のアテになれるように頑張っていきたいですね!30代後半〜って会社でも1番の働き盛りできつい時期じゃないですか。そういう同世代の人たちに”あいつ、必死に頑張ってんなぁ”って思いながらお酒を飲んでほしい。それが刺激になって自分も頑張ろうって思ってもらえるような選手になりたいと思っています。
KC)必死なベテランの姿を見せて、それで酒飲んでくれってめっちゃかっこいい。今日のインタビューで既に俺も頑張ろうって思えたので、頑張ります(笑)!本日はありがとうございました!
清水選手)ありがとうございました!
Feb 03
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